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少なくとも生きるということの意味を考えることは無意味であろう。
生と死は等価値のものであり、その間の差異を普遍的に定義することは不可能だからである。
生きているときには少なくともactionは存在していそうである。
少なくとも生の間に身体の移動は個人個人ではあっても全体として認知されている。
もちろん何もしない、というのも一つのactionであることはお分かりいただけるだろうが。
ではそのactionの意味づけというのは何なのであろうか?

ここで自分はghostとshell/dollが乖離しうるという視点に立っているということを念のため述べておく。

全ての行為は自己回帰的であり自分の心が“傷つく”ことを防ぐものであると思う。
ここでいう自分の心というのは自分の中の自分であると同時に他者の中の自分でもある。
他者が自らに望む行為をしなければ、「他者の御めがねにかなわなければ」他者の中の自分は傷つけられていくわけだし、それを恐れることが最終的にはアクションを起こす起こさないの判断をしているのだろう。
しかし、事実社会というstand alone complexの中で人の心は傷つけられていく。
それを防ぐことができない、そこにその個人の心の欠けた部分があるのであり、人間はその部分を補完して自らの心が傷物になることを少しでも防ごうとする。
おそらくそれが愛であり、それを具象化させ、そこに子孫という付加価値をつけたものがsexual intercourseなんだろうよ。とりあえず心の補完である「他者と一つになる」錯覚は暫くの間は味わえるからね。

ここで
他者の中の自分、つまり他者のゴースト中の自分の“像”が実体たりえるか、
なぜ実体ではない人形の動きがゴーストに影響を与えるのか、
生死は人形の活動活性について述べるべきものか、ゴーストの消滅如何について述べるべきものか、
そもそもスタンドアローンなゴーストが補完のための積極的接触を他のゴーストに行っていない状況で他のゴースト中の自分のイメージが自らのゴーストへフィードバックされる、すなわち自らのゴーストは果たして本当に他のゴースト中の自らのイメージを自身のゴーストの一部と認識しているのか、
などの疑問がまた残されるが

とりあえずこの議論は完結したとみなしてよいだろう。
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無題
>全ての行為は自己回帰的であり自分の心が“傷つく”ことを防ぐものであると思う。
>ここでいう自分の心というのは自分の中の自分であると同時に他者の中の自分でもある。
>他者が自らに望む行為をしなければ、「他者の御めがねにかなわなければ」他者の中の自分は傷つけられていくわけだし、それを恐れることが最終的にはアクションを起こす起こさないの判断をしているのだろう。

すごく納得。実感を伴います。

>おそらくそれが愛であり、それを具象化させ、そこに子孫という付加価値をつけたものがsexual intercourseなんだろうよ。

こういう考え方もいいね。
ただ、sexual intercourseは始めから具象であり、それを人間だけが勝手に抽象化して「愛」だと認知するようになって、その「愛」に対して人間が勝手に様々な意味づけをしている、というのが私のイメージかな。siwoのこの文章とは順番が逆だよね。
ま、論の展開としてはsiwoのじゃないといけないだろうけどね。
zam 2006.08.30 21:23 edit
無題
確かにその順番でも話は通ずるよね。
多分僕もこの論理展開だからこういう順番で書いただけなんだと思う。
しを 2006.08.31 01:25 edit
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