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これ以前のブログからのサルベージ

何か不慮の事故で四肢の切断を余儀なくされた人って始めのうちは手足があるように感じる、ってことを聞いたことがある。


つまり、その人は手足があると「考えて」いるのだが現実にはそれがない。
自分が「現実」と考えていることと「本当の現実」との間には大きなギャップがある。
「現実」が「本当の現実」であるとは全く限らない。
何回もこっちを振り向いて微笑んでくれる斜め前の女の子。
「きっと僕が好きに違いない」
始めは「~かも」だったものも最後には確信に変わる。
自分はあの女の子が自分を好きだってことを「現実」と考えている。
ま、エンディングは想像つくでしょ。
これは「現実」≠「本当の現実」がもろく露呈するケースの代表例。

で、
cogito,ergosum.
と考えている人は多いだろう。
別にデカルトだけじゃない。

さてと、
自分が「思う(≒考える)」のは「現実」かな?「本当の現実」かな?
「本当の現実」となるためには客体の視野に具現化され、その存在が証明されなければならない。
と、いうことは「cogito」というのは「現実」である。
だって本当にその人が考えてるかなんてわかんないじゃん。
つまりその人にとっては「本当に」自分が「考えて」いるかなんて分からない。
単に「考える」という名のフローを与えられているだけなのかもしれない。
つまり、自分が今考えていることは「既に」その結論が存在しているのかもしれない。
簡単に言えば既に自分は既定されているコース上を自分がその「レール」に乗っていることも認知できずに動いているだけなのかもしれない。

定められた未来とそれにただ目を惑わされながら歩く人間。
考えるという行為はある意味で選択である。
複数個の候補から一つを選び、その道に入っていく。
その道の先にはその道の結論がある。
でも何を「選択」するかは既に決まっているかもしれない。

さて、ここまで来たらこの続きはここで。
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